談話におけるダ体とデス·マス体の選択と混用の分析
2018-10-15杨雪
1.はじめに
談話分析という表現はdiscourse analysisの日本語訳として使われてきた。昨今の談話分析や談話研究の動向を見ると、その領域の膨大さが印象に残り、かかわる学問領域も多岐にわたる。言語学をはじめとして、応用言語学、言語心理学、コミュニケーション論、社会学、心理学、などと広範囲に及んでいる。
日本語のスタイルは、従来敬語と関連しながら普通体·丁寧体として扱われきたことでも知れるように、社会言語学上の要素との関係で論じられてきた。しかし、実際、日常生活においては、スタイルは、年齢、地位、性别などの当事者の背景や、目上·目下、また話し手と聞き手の性别関係など、コミュニケーションの場によってのみ決定されるのではない。また、一度選ばれたスタイルがずっと維持されるわけではなく、常にシフトしながらミックスされて使われることも周知の通りである。本稿では談話スタイルすなわち、ダ体とデス·マス体をめぐり、分析しながら、そのスタイルの選択と混用のことを考察してみよう。
2.ダ体とデス·マス体の選択
スタイルの選択は、基本的には相手を意識して正式に働きかけるか·かけないかという条件と、相手を近付きたいか·遠くにいたいかという条件による。この(1)正式に相手に向けるか、(2)相手との距離を保持·拡大するかという二つの要素を用いて次のようなフローチャートができる。
3.ダ体とデス·マス体:スタイルシフトの表現性
談話例 100円のうどんを食べに行く
(1)100円のうどんを食べに行った。
(2)いいですか100円ですよ。
(3)一回の食事が100円で済むわけです。
(4)「フ-ン、そりゃよかったね」
(5)だって?
(6)どうも事情がよく飲み込めていないようだな。
(7)つまりです、昼飯を食いに行く。
(8)100円のうどんを食べる。
(9)堂々とヨージでシーハしながら店を出て行く。
(10)100円でこういうことができるわけです。
(11)「フ-ン、そりゃよかったね」
(12)あのねえ……いまどきねえ、例えばねえ、定食屋のライスだってねえ、200円なわけです。
(13)定食屋へ行ってライスだけ食べて、堂々とヨ-ジでシーハしながら店を出て行くことができますか。
(14)居酒屋の塩辛なんか、小さな皿にちょこっと入っていて300円はするわけです。
(15)居酒屋で塩辛だけ食べて、堂々とシーハしながら店を出て行けますか。
(16)新宿の西口、ヨドバシカメラのすぐ近くの讃岐うどんの店「はなまる」。
(17)かけうどんが一杯100円だという。
(18)しかもただの駄うどんではなく、今評判の讃岐うどん、それも香川県から直送しているうどんなのだ。
ここで、例示された談話例を観察してみよう。「100円うどんを食べに行く」はダ体を基調としたスタイルで書かれている。談話例として抜粋された部分には、デス.マス体が使われるが、それは読者に積極的に働きかけ、あたかも読者ひとりひとりに話しかけているような書き手の態度を伝える時である。この差が明らかになるのが(1)「100円のうどんを食べに行った」と(2)「いいですか100円ですよ」である。(2)の「です」を使って、もっと丁寧になる。さらに(3)で「一回の食事が100円で済むわけです」と説明し、事実文である。(6)ではシフトして「どうも事情がよく飲み込めていないようだな」と半分自分に語りかけるようなダ体の表現となっている。
(7)の「食いに行く」、(8)の「食べる」、(9)の「出て行く」はダ体で、これらは(10)で「こういう」という指示表現でまとめられていることでも明らかなように、従属的な文である。このため、デス·マス体は回避されていると言える。また、(12)で「あのねえ……いまどきねえ、例えばねえ、定食屋のライスだってねえ、200円なわけです。」と説明し、(14)で「居酒屋の塩辛なんか、小さな皿にちょこっと入っていて300円はするわけです。」と説明し、二つの文とも事実文である。(13)の「できますか」、(15)の「行けますか」はマス体を使って、相手に正式に働きかける気持ち或いは、話し手の尊敬の気持ちが表せると思われる。
また、相手に積極的に働きかけるかどうか、相手との距離を保持·拡大するかどうかという基本的な基準で、次の雑誌記事「海岸」の例も、説明できる。
(1)初めて汐留に行った。(2)驚いた。(3)舊国鉄(現JR)跡地で、今再開発しているところだけど、勘弁してよ、JR。(4)なんだあ?(5)あの莫大な土地は。(6)こうやって、ある日突然出現する街っていうのがある。(7)始まりは恵比寿ガーデンプレイス。(8)あれはビール会社の土地だった。(9)それから麻布十番の大きな地下駐車場も、何年か前、行ったら突然あった気がする。(10)これは核シエルターも兼ねてるという噂。(...)
(11)はっきりいって私は政治に無関心です。(12)三十歳の大人として恥ずかしいくらい世の中のこと知りません。(13)というか信用してないのね。(14)子供のときから、大人を信用しない反社会派だったんだけど。
(15)「あんな大人になりたくない」
(16)と思って、警察につかまりながら育ちました。
(17)とにかく屈折してました。(18)でも今のほうがもっと屈折してるかも。(19)もう世の中、ウソだらけとさえ思う。(20)だから自分の目で見て、自分で感じて、自分で思わない限り信用しない。
(21)もしテレビのコンセントも抜けて、NTTがデメになったら……。(22)そしたら私たち、なんにも知らないで生きてるわけよ。(23)山奥に住んでる、何とか族の人たちは、今も戦争が始まったことなんて知らずに生きてる、きっと。(24)何とか族は、自分で見たことしか信用しないはずだ。(25)そんなこと考えながら汐留ですよ。(26)新しい街ができて、日本の国が発展していくのは素敵だし、いいことだと思うの。(27)でも最近の東京では、新しい物ができるのは湾岸だけ。
このシリーズは全体的にはダ体を維持しているが、デス·マス体の表現は読者に向けて、説明、弁明する態度を伝えている。(11)と(12)の「無関心です」、「知りません」は、書き手が意識して読者に向けて弁明する表現意図がある。この部分は、コミュニケーションの意図がより公的で多数の人に向けるもので宣言的である。特に、(11)と(12)は談話構造上からも、書き手が意識して暴露する情報で、中心文となり、デス·マス体になっている。
(13)と(14)では情意のダ体で、書き手は自分の誰も、何も信用しない気持ちが表せて、自分の思うことを直接に伝える態度にシフトしている。(13)と(14)は、(11)と(12)で維持される意見に従属していて、関連した情報を付け加える。「というか」という表現が使われていることでも、後ろに続く部分は自分の本音を直接に言える。
(16)はその辺りの事情をまとめる主節的な文となっていて、公的、多数の人に向ける話しであって、デス·マス体になっている。再びデス·マス体にシフトする。(25)の「そんなこと考えながら汐留ですよ」は書き手がトピックをコントロールするために、ここで話しを本に戻すもので、相手を意識した表現となる。
4.終わりに
以上、談話におけるダ体とデス·マス体の選択と混用することをめぐって分析してきた。従来の研究では、ともすればダ体とデス·マス体の違いは、社会言語学的な要素や会話の場面などによって決まるとされがちであった。しかし、スタイルの選択は、社会慣例に違反することによって効果を生み出す場合もあり、むしろ、社会に慣例を個人意志との間の葛藤の結果として、選択されることが多い。スタイルの選択とそのシフトが、そのような社会的な要因のみならず、むしろ、話し手が、(1)正式に相手に向けるか、(2)相手の距離を保持·拡大するかというどちらかというと心理的·心情的な要素によって決まることを論じた。これから、感情のゆれとスタイルシフトとの関係を詳しく考察していきたいと考えている。
参考文献
[1]泉子·K·メイナード.『会話分析』.くろしお出版,1993年
[2]泉子·K·メイナード.『談話言語学』.くろしお出版,2004年
[3]小泉保.『入門 語用論研究』.研究社,2001年
[4]津田旱苗.『談話分析と文化比較』.リーぺル出版,1999年
[5]ジェニー·トマス.『語用論入門』.研究社出版,1999年
作者簡介:
杨雪(1983—),女,汉族,吉林长春人,讲师,硕士,主要从事日语语言文学研究。
(作者单位:大连交通大学外国语学院日语系)