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森鴎外漢文化学習についての研究

2014-08-15杨丽英

科技视界 2014年27期
关键词:責任影響祖母

杨丽英

(凯里学院,贵州 凯里556011)

1 はじめに

森鴎外は自らが専門とした文学·医学、両分野において論争が絶えない人物であった。文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を揚げる。また医学においては近代の西洋医学を旨とし、和漢方医と激烈な論争を繰り広げたこともある。和漢方医が七割以上を占めていた当時の医学界は、ドイツ医学界のような学問において業績を上げた学者に不遇であり、日本の医学の進歩を妨げている、大卒の医者を増やすべくだ、などと批判する。

『舞姫』は、明治二十三年一月に、森鴎外の処女作として「国民の友」に発表されて以来、主題をめぐって、作者自身によるものを含め様々な議論がなされてきているが、恋愛と出世、国家·家と個人という対立における自我の目覚めと挫折の物語であるというのが大勢である。

『舞姫』の文語体から見ると言文一致を用いたものの、漢文化の影響で雅語を用いている作品だと思われる。それはなぜであろうか。ここでは、その原因を明らかにするため、森鴎外の漢文化学習について研究しようとしている。

2 社会原因

小学校が生まれるのはのちの明治五年であり、この時代の学問の本、医学の本などはすべてが漢文で書かれていたので、津和野藩の御典医の家に生まれた森鴎外は、医学の本を読めるように、漢籍の本を読まなければならない。和漢方医が七割以上を占めていた当時の医学界に、お医者さんになるつもりの人は、漢籍の本を読めるために、漢文化の教育を受けなけらばならない。学問を増やすためにも、漢籍の本を読まなければならない。明治初期にいる森鴎外は、学問を増やすためと医学の本を読めるため、漢文化の教育を受けなけらばならない。漢籍の学問の本といえる代表的な古典漢籍の本は『孟子』、『四書』、『五経』、『左伝』、『国語』、『史記』、『漢書』などである。これらの本は儒学の思想を体現することができる本も言える。だから、これらの本を学んだ森鴎外は、家庭の長男としての責任と家を興す使命感も強くなりつつある。

明治前期のエリート青年達は、日本近代国家を建設することを宿命づけられていた。明治初期にいる森鴎外はその宿命も逃げられず、日本近代国家を建設するため、できるだけ自分の力を尽くすことは自分の使命として頑張らなければならない。それとも、よく勉強することは、立身出世の手形であり、家を興す機会でもあった。森鴎外は一家の大きな期待と責任の重圧を背負って、エリートのコースを歩かなければならない。明治前期のエリート青年になるため、漢籍の本を読まなければならない。森家のエゴイズムとしての森鴎外は、家を興す使命を背負って、大切に立派に育ってようという気持ちがあって、祖母は鴎外の学習に熱心して、毎日に送れたり迎えたりにしている。森鴎外はエリートのコースに向かって、毎日惰らずに勤勉して、小さいから漢籍を学んで、東京大学医学部に入って、ドイツの留学を通して、最終立派な明治エリート青年になった。森鴎外の生涯はそれほど輝かしい栄光につつまれていた。

3 家庭原因

森鴎外は文久二年(一八六二年)に島根県の津和野で生まれている。本名は森林太郎、家は代々津和野藩主の典医である。鴎外の誕生のありさまを鴎外の妹小金井喜美子はその著『森鴎外の系族』の中で、次のように述べている。

「その正月十九日に、母君産の気つき給ひ、健やかなる男の子を生み給ふ。これぞ我が兄君なる。神棚に燈明かがやき、祖母君涙さへ落として喜び給ふ。亡き人の旅の日記にも初孫の顔見んことを楽しむなど、幾だびか記し給ひつれば、これやがて祖父君の生まれかわり給へるようなど云ひつつ家の人々やうやく愁いの眉すこし開きつ。いかで此ちご、よく生したててと誰も誰も思ふ。

母となり給ひてもまだうち若くましませば、祖母君むねと引受けて育て給ひぬ。男の子の初児とて、あつかひいとむつかしく、夜啼きなどをするを、夜も寝ずと云ふさまにて心づかひし給ふ。其頃往みける津和野川のほとり、常盤橋のたもとなる中島と云ふ所を知りたる人、夜ふけて通りかかれるに、ともし火あかあかとしての打騒ぐけはひす。急病の人もやと立寄りて音なへば、幼なき児をあやすざわめきなりしかば、その事々しさに驚き笑ひて、人にも語りぬとぞ。」

森家の久々の長男鴎外は、祖父網浄の生まれかわりという祖母清子の涙を始め、一家の期待を一身になって生まれた。誰の心にも、この長男を大切に立派に育てようという気持ちがあって、夜も寝ずの大騒ぎとなって、だいじにだいじに育てられ、知らず知らず森家のエゴイズムは森鴎外の身にくいいることになった。生まれるやいなや、鴎外の背には大きな期待と責任の重荷がかかっていた。

森鴎外は、家を興すため、慶応三年、六歳になると津和野藩の儒者村田久兵衛について、漢籍の手ほどきを受け『論語』を学んだ。七歳になると、やはり藩の儒者米原綱善について『孟子』を学んだ。明治二年、八歳の鴎外は、津和野の藩校養老館に入学し、その俊秀ぶりをいかんなく発揮した。一年目は『四書』を、二年目は『五経』、三年目には『左伝』、『国語』、『史記』、『漢書』などを学んだ。

一家の大きな期待と責任の重圧がかかっていた森鴎外は、家の大切に立派に育っていた。明治初期の立派なエリート青年になった。森鴎外の育たれたエリートコースは漢文化の儒家思想と一致になっているのではないであろうか。

4 おわりに

以上からみると、森鴎外の漢文化の学習は社会と家庭の影響を受けたことが明らかにした。名作『舞姫』は、漢文化をよく勉強した森鴎外を書いた小説だから、文章の文語体は漢文とよく似ていることとラブストーリのあらすじも儒学の立身出世思想と一致して、功名のため恋人を捨てる物語と同じような結果を見える。今後、漢文化は『舞姫』のあらすじに対しての影響を研究したいと思う。

[1]小泉浩一郎.森鷗外集[M].岩波書店,2004:3-32.

[2]小金井喜美子.森鷗外の系族[M].岩波書店,2001:43-45.

[3]福田清人.森鷗外『人と作品」』[M].清水書院,1982:16-19.

[4]井上靖.『明治の古典8』[M].株式会社学習研究社,1982:165.

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