从中国学习者偏误看日语接续表达形式
2010-11-18王忻
王 忻
(杭州师范大学 外国语学院,浙江 杭州 310036)
从中国学习者偏误看日语接续表达形式
王 忻
(杭州师范大学 外国语学院,浙江 杭州 310036)
日语接续表达历来是学习者感到棘手的问题之一。中国日语学习者在这一方面出现的偏误以近义性表达为多。而且,不仅日语本身的近义属性,相对应的汉语的近义属性也会出现问题。通过偏误实例与正确用例的对比,在先行研究成果的基础上,对“から”、“ので”以及“そして”、“それに”、“すると”的使用区别进行重新规定。另外,对至今尚未被重视的语篇中调整句子长短的接续问题也进行了探讨。
日语;偏误;接续表达;近义属性
引 言
日语接续表达历来是学习者感到棘手的问题之一。本文将“偏误体系研究”接续表达分为接续助词、接续词和其他接续表达问题三部分进行考察。在本次调查收集并筛选整理的偏误例集中,接续表达的偏误例共86例,其中接续词8例,接续助词和其他接续表达各39例。接续词案例较少,其中有学习者认为接续词使用较难而有意回避的原因。严格地说,不当的回避也属偏误,但日语接续词的回避往往达不到可称之为偏误的程度(即发生回避的句子虽不如不回避的漂亮,但还算不上是错句),故出现该状况。从发生偏误的类型来看,以近义表达的使用区别掌握不当为多。其中还有因中文译词相同而日文表达并不属同义之类者。
以下按上述分类分别进行考察。
一 接续助词て(で)、ので、から等
三词的汉语译词均可为“因为……所以”,但日语的使用上却并非是任意的,因此,偏误率相对较高,首先看以下的偏误实例:
(1) 父の会社は家から遠いですから(遠いので)早起きしなければなりませんが(から)とても疲れています。
(2) 天気がよくて(いいから)、散歩に行きましょう。
(3) この魚は古くて(古いから)、食べてはいけません。
(4) 寒くて(寒いので)、窓を閉めてください。
(5) 日曜日に父と母が杭州に来たから(ので)、私たち一家はショッピングに行った。
(6) 私も暇で(暇なので)、行きます。
(7) うるさいため(から)、静かにしてください。
(8) 五位のいい先生に会って(五人の立派な先生と出会えたので)、必ず日本語は上達すると思います。
(9) ペンを忘れたから(忘れたので)、ちょっと貸してくださいませんか。
(10) 母はうらやましそうな顔をするので(して),広い家をほしがっているようでした。
普通の人は一日に3食ですが、私は3食では足りません。私は寝ていても、
おなかがすいたから(すいて)目が覚めることがあります。そのために、私は寝る前にいつもパンとか、ビスケットなどを食べ、ミルク一杯を飲みます。
关于て(で)、ので、から的使用区别,横林·下村(1988)作出如下解释:
<から>原因や理由を主観的に表す。後の文に推量、要求、命令などの形が使える。
<ので>原因、理由などを客観的に表す。後の文に推量、要求、命令などの形は使えない。
<て/で>理由を表すが、「から」「ので」より原因と結果の関係は弱い。後件には積極的な意志を表す表現は使えない。前件の結果自然にそうなる、そう感じる、やむを得ずそうするというような表現が続く。
根据以上原则,(1)的“遠い”属客观性表达,故“ので”是合适的,后面的“なければなりません”作为“疲れる”的原因,需要使用表原因的接续助词。其属于客观性还是属于主观性比较含糊,故应二者均可使用。但又因“ので”在前面已经用过一次,从避免重复的角度出发使用了“から”。这种二者均可使用的场合原则上可以规定为主客观性特征不明显者为宜。例如:
(12) 電車に間に合わなかった[ので·から]遅刻した。
(13) 花があまりにきれいだった[ので·から]みんな買った。
(2)、(3)的后项为意志、邀请、命令、故应使用“から”。(5)的后项为客观地叙述事实之类,故“ので”为宜。到此为止,横林·下村(1988)的解释完全可以适用,但(4)以及(6)到(9)就难以解释得通了,在文学作品相应的实例中也发现了同样倾向。
(14) 「じゃあ、退院していただくとしまして―父が気を病むといけませんので、お食事でも御一緒にさせていただきましょうか」(あした来る人)
(15) そう言ってくれたので、八千代はやはり行こうと思った。(あした来る人)
(16) 返事のかわりに、女はじっと目を閉じた。いましめを解いてもらえないので、すねているのだろうか?馬鹿な女だ。(砂の女)
(17) 男子の先頭はボクだったので、どうしてもボクのクラスは遅れてしまおう。(五体不満足)
(18) それから間もない昭和六十一年四月一日、私は社長に「体調が悪いので、営業本部長を辞めさせてください」とお願いした。(心の危機管理術)
以上各例均为推测、要求、命令,但却使用了“ので”。并且更有甚者,这些句子若按横林·下村(1988)的规定换为“から”反而使人感到不自然。接下来我们再看看“から”的实例。
(19) いかがでしたでしょうか、正式な検査ではありませんから、気軽に考えてください。(ひとりっ子の上手な育て方)
(20) 「待ってくれ!ちょっと、聞いてほしいんだ!聞くだけでいいから、待ってください!」(砂の女)
(21) 4組の体の大きな男の先生も、「いざとなったら、私が背負って歩きますから、心配せずに乙武を連れていってください」と言ってくれていた。(五体不満足)
这些事例至少可以证明以下几点:
(一)“ので”前面多为别人的动作,自己过去的动作等已经成为客观事实的事项。而“から”前面多为自己的从现在以后将要发生的动作。
(二)“ので”句强调的表原因理由的前项,而“から”句则侧重后项的说话人积极的语气。
因此“から”与“ので”的主观性、客观性的相对特征作为大体上的区别虽然成立,但在语言实际使用中也常有互犯疆土的事。“ので”的后项不可出现推测要求,命令形式的说法显然有些过头。同样是命令形式,(4)中的“寒い”由于并非听话人主观上的原因故使用“ので”。(7)中“うるさい”由于是听话人主观上的原因故使用“から”。寺村(1981)也曾提出下表表明有关见解(仅摘录有关部分):
文のムードつなぎの形式事実の描写判断·断定判断·推量意志·意向勧誘命令疑問~て○△△****から○○○○○○△ので○○○○△△△
在对寺村上述观点表示赞同的基础之上还想补充的一点是,日本人在说话中总喜欢留有余地,强调客观性,避免给人以主观臆断的感觉,故比起“から”来,“ので”被更多地使用。鉴于这个原因,原本横林、下村理论中规定不可使用“ので”的场合变得可以使用,有的还不仅仅可以使用,甚至到了用“ので”比用“から”更自然的地步。
另外,认知语言学的“礼貌(politeness)说”*参见R.Lakoff1973、Leech1983、Brown and Levinson、转引自大堀寿夫編『認知コミュニケーション論』,东京:大修馆书店,2004年,p.223。对解释“から”“ので”非常有力。山本もと子(2001)根据该理论对“から”“ので”进行了考察,认为:“聞き手が親しい間柄であるときには「から」を用い、聞き手が親しい間柄ではなかったり、聞き手に対して敬意を示したいときには「ので」を用いて原因·理由を表しているという結果から、話し手は聞き手との関係がどの程度親しいと感じているかを無意識に伝達していると考えられる。”也就是说“から”用在语感不太客气的句中,“ので”用在相对礼貌的句中。这一原理对解释“主客观说”难以解释的句子的确有效。如例(9)礼貌程度非常高,属非亲密关系间的会话,故用“ので”合适。
综合以上考察,笔者认为从“から”到“ので”存在一个语义渐变的连续统(continuum),从两端向对面延伸,而中间中和的部分就是两者都可使用的部类。例如礼貌关系,关系越亲密越多用“から”,越疏远越多用“ので”,中间的过渡色两者都可用。而礼貌与主客观矛盾时,礼貌原则优先。
图1
(10)不是表原因理由,而是表两个动作同时进行,故用“て”合适;(11)虽然是表原因理由,但符合前述横林·下村(1988)的规定,即后项是作为前项的结果自然地形成的,故应使用“て”。
二 接续词“そして”、“それに”、“すると”等
以下是这几个词相互用错的实例:
(22) 幸いことには(幸いなことに)文系と理系にクラス分けされる高校二年生になった時、彼と私はクラスメートになりました。それに(そして)彼は私のいい友達になりました。だから彼のことについて私はよく知っています。
(23) 今、プールの入場券が(は)高くて、(い。)そして(それに)公園の湖で泳ぐことも禁止する(された)。海に行くチャンスは少なくない(少ない)。だから、毎日泳ぎには(泳ぐのは)無理だ。
(24) 各国の商人が上海へ商売しに行ったから(来たから·来たので)立派な港や近代化な工場が立てられた。すると (そして)近代中国の最初の工業都会(工業都市)となった。
关于“そして”、“それに”、“すると”,《広辞苑》等三种辞书的解释如下:
そしてそれにすると広辞苑そうして。その上に。加えて。そのうえ。かつ。前の事柄に続いて後の事柄が起ることを表す。そうすると。日中辞典而且,然后,于是而且,更兼于是新日汉辞典然后,于是;而,又而且,再加上于是就
由此可知,日语辞书中“そして”和“それに”在“その上”的意义上重叠,在中文的词典里上述二词在“而且”的意义上重叠;“そして”和“すると”在“于是”的意义上重叠。这些重叠的解释肯定会使仅靠查词典来使用这些词的人感到茫然。但实际上,这些词虽然在释义时的解释相同,但各自的使用条件及限制是不相同的。下面我们首先看看实际使用例(括号内为语料库的原译,加“—”号的是原译中未译出笔者为试验接续关系而补译的)。
(25) 曾根は入口でゆっくりと内部を見渡した。そして(—随后)空いて三つの席の中で、若い婦人客の前の席を選択した。(あした来る人)
(26) この分では空席を占領するのは容易なことでないなと思った。そして(于是)、曾根はこうした場所を指定して来た旧友山田喬に軽い反感を覚えた。(あした来る人)
(27) 夫の克平は会社の客と食事をするといっていたので、どうせ帰宅は遅くなるだろうと思って、八千代は先きに風呂にはいった。そして(—并且)自分が風呂からあがると女中のりかをも入浴させようと思った□(あした来る人)
(28) 杏子は、克平の言った事実に驚いたのではなくて、克平のぴしゃりとした言い方にはっとしたのである。そして(—并且)、その容赦ない決めつけ方が、少し憎らしかった。その時、ホーイがやって来た。(あした来る人)
(29) ときどき雑巾掛けをしなさい。そして(—并且)、いつも部屋をきれいにしておくんですよ。(森田良行·基础日本语2)
“そして”和“それに”的主要区别可以说是前者用于主观性叙述,后者用于客观性叙述。据此,(29)是命令句,属主观性范畴,“それに”不能使用。(27)是说话人站在八千代立场上讲话,主观性较强故只能使用“そして”。与此相对,(28)的原文是站在杏子的立场上进行叙述的,但此句若不是这样而是站在解说人的立场上进行客观性叙述也有可能,这时“それに”便可以使用了。另外,像(25)那样的时间性的顺序性的叙述中不可使用“それに”,而这里“すると”是可以替换的。“すると”是表继前项事件之后后项事件立即发生之意的接续词,在时间性、顺序性的叙述这一点上与“そして”重合。只不过“すると”表达具体的动作及前项完了后项立刻继起发生的事物时具有特别的优势。此外,“そして”在叙述事实、事件时经常被使用,而“それに”在评价、下结论时使用较多。上举实例中除时间顺序的(25)以外基本都可显示出这一倾向。最后“そして”是由“そうして”的缩约形渐渐固定下来的这一出身决定了它的叙述体现前后贯穿的特征。这是区别单纯累加的“それに”的又一特征。这一特征也可从上述实例中看到。
根据以上分析,(22)是承接前项贯穿全句进行叙述的,同时又与时间性、顺序性有关,并且又带有主观性色彩,故非“そして”莫属。(23)中的“入場券が高い”与“泳ぐことの禁止”看不到前后的连贯性,又是客观性叙述,故“それに”适用。(24)与后面的(25)同样是时间性顺序的叙述,按说“すると”与“そして”均可使用;但(24)不具备具体性的动作及前项事件之后后项事件立即发生的性质,故“すると”不合适。
从汉语译文来看,“そして”和“すると”有时同被译为“于是”,“そして”与“それに”有时同被译为“并且”(“并且”在调查的词典中未出现,但在句子里的确有比“而且”更合适的语感),这些事实构成母语干扰的原因,值得格外注意。
三 其它接续问题
日语的接续问题非常复杂,除前两节所述接续助词、接续词以外还有许多跨范畴错综交叉的错误常可见到。本节将对其中较典型的一些问题进行探讨。
(一)接续形式的混用
(30) 国際市場の米ドルの変動のわけ(変動により·変動のため)、輸出が大変になりました。
(31) もう夏になりましたが(夏になり·夏が来て)、雨季も終わりました。
(32) 先生が元気でいらっしゃることが分かるのが(分かって)、本当に嬉しいです。
(33) 夏休みも終り(終りましたが)、先生は今年の夏はどこかへお出かけになりましたか?昨日、ご郵送くださいました留学生入学申し込み書類を受取りました。
(30)首先因为仅仅“わけ”是不能构成中止形的,“わけで”的话虽从接续形式上来说可以成立,但在此还是令人感到不自然。或许是由于“わけで”与“ために”在汉语里均被译为“因为”的缘故,在中国学习者身上才可见到此类错误。而在日语中二词未被视为近义词故很难找到二词比较的先行研究,为解明本类偏误原因,以下通过请日语母语话者对实例进行替换试验的方法,来对找出二词的异同进行一些探索。
1. “わけで”的实例
(34) 「―そんなわけで、気がくしゃくしゃしておりますのよ」(あした来る人)
(35) 生活史、つまりその魚の一生がわからない限り、厳密に言って、進化か環境による適応かはっきり判らないわけで、学説としては弱いと思うんです。(あした来る人)
(36) 秋冬に伐ると、地めんは冷たい。伐った根はそのまま生きていた。藪としては死根にそれだけ肥料をとられるわけで、損失といえた。(越前竹人形)
(37) 老役員たちの会話は、こうしたわけで、私の心に、凡庸さの移り香のようなもの、かすかな嫌悪だけを残して飛び去った。(金閣寺)
2. “ために”的实例
(38) しかし私には、外界というものとあまり無縁に暮して来たために、ひとたび外界へ飛び込めば、すべてが容易になり、可能になるような幻想があった。(金閣寺)
(39) 丸木橋をわたると、右に三重塔が、左に紅葉の林があって、その奥に百五段の苔蒸した石段がそびえている。石灰石であるために滑りやすい。(金閣寺)
(40) 火がつけられた。配給の油が、住職の死のためにたっぷり用意されたので、火は却って雨に逆らって、鞭打つような音を立てて募った。(金閣寺)
经请日语母语话者对上述实例进行替换的试验,证明仅有(35)、(36)两例可以置换,其它均不可以。二词的主要区别似可归纳为:“ため”表原因,后项的事件、现象因为有该原因才会发生。后项除事件外,像(39)那样的自然现象也可成立,时态上过去、非过去均可。“わけ”表理由,后项事项为对到此为止的理由的叙述,多为现实性表达。已经开始进行或进行完了的事项经常会成为后项。(39)之类的纯粹的自然现象句不多。(35)、(36)两例之所以可以换成“ため”,也是出于这两句多少带有一些自然现象句的性格的原因。此外在“こんな”、“こうした”等词后面,“ため”难以出现。(30)除了接续问题以外,与其说该句要说明导致已经发生事件的原因,不如说先有“ドルの変動”的原因在前,才有“輸出が大変になる”的结果才是该句想要表达的意思。故此“ため”更为合适。(31)是接续形式的问题。“が”除逆接以外还有顺接的用法。包括如“山田と申しますが、洋子さんいらっしゃいますか”那样的“前置き(前置)”和“あのう、ちょっと1枚だけコピーしたいんですが”那样的“言いよどみ(中途停顿)”(据《日本語文型辞典》)等部类。而(31)中的“が”无论如何也难以认定为此二类中的一类。若判定为逆接,句意又变得不通。因此必须使用其它形式的顺接,故修改为动词的中止形。(33)正好与(31)相反,如仅用动词中止形会令人产生与后句连接不上的感觉,而使用“が”的顺接用法最为妥当。(32)是句子成分关系错误的问题。“うれしい”是感情形容词,故其主语理应是说话人(句中未出现的“わたし”)而不应是“分かるの”。“分かる”与“うれしい”并列起来,其同担当“わたし”的谓语。改为“分かって”便可使这种关系调整顺畅。
(二)调整句子长短的接续问题
(41) みんなですしを食べて酒やビールを飲んだ。食べ終わって外に出てみると雨がやんでいたから(。それで)うっかりして傘を忘れて帰ってきた。
(42) 来学期、すぐ就職活動で忙しくなりますから、まだお聞きしたいことはたくさんあるから、(あります。)申し訳ございませんが、先生のお暇な時、もういちどおうかがいしてもよいでしょうか。
(43) 例えば、中華料理で有名な「碧緑蝦仁」と言えば、赤いえびと緑のグリンピースを合わせて、(合わせる。)そのえびは油のためにつやつやしていて、(している。)こんなきれいな色を見て、おいしそうと思わない人はたぶんいないだろう)。
(44) 「こんなに長い時間が経った。(時間が経っているのに、)どうして自分の成績がまだわからないんだ」と思った。ぱっと緊張した。
在语篇中,句子的长短以及句子与句子的连接都与接续有着直接关系,句子过长会使人感到晦涩沉重、难以理解,过短又会给人苍白无力、单薄无物的感觉。在适当的长度上断句,并通过正确使用接续形式,使文章成为有机整体是提高日语写作能力的重要功课。武部(1982)举出下列范文:
(45) 夜遅くまで勉強していると、夜食を食べることになる。その時、おいしいもの、好きなものといって、油やバターを使った脂肪の多い料理はよくない。こういうものは消化に時間がかかり、胃に大きな負担をかけるからである。せっかく夜食を作っても、かえって眠けを誘うことになりかねない。めん類とかサンドイッチのような、あっさりしたものの方がよいのである。
紧接着武部说道:“このように、文章の長さというのは、三十字ぐらいが適当なのである。”数一数确实差不多每句都是30字左右。但笔者并不认为造就文章如此朗朗上口的原因全部在此。30字对日语句子的确是个合适的长度,但并不是句子掌握在30字就可写出好文章。与此相比,从句子成分考虑可能更具可操作性。笔者经过对部分典范日语文章的调查得出以下结论:一个句子由两个分句构成,一个分句里第一级谓语关系保持1个的句子是比较理想的。另外,定语词组不可过多(最好在2个以下)也是需要注意的。此结论只对一般叙述性文章有效,小说、戏剧等的对话台词不在此例。
(41)在“から”之前已有3个谓语关系,后面还有3个,故应该断为两句,不然显得拖沓冗长,意思也会含糊不清。(42)在“あるから”处以“あります”断句的话,前句正好两个分句,各分句中也正好各有1个第一级谓语关系,刚好符合理想值。(43)也是一样,在含有谓语关系的第二个分句处断开,句子就变得流畅自然了。(44)与前几句正好相反,是把过短的句子改长才好的类型。当然修改也应该遵循前述原则进行。即把各有1个谓语关系的单句用接续助词“のに”连接成有两个分句构成的33字的复句。修改理由的另一点是引用分句内部最好不要断句。
当然,提出上述原则并不是说可以完全不顾表意,而教条地只用字数、分句数去整理句子。上述原则必须是在对正确表意无妨碍的前提下实行的。
结 语
日语的接续问题是一个复杂的体系工程,也是一个非常值得大加研究的课题,本文仅仅是从一个侧面——中国学习者易发生偏误之处进行一些探讨,希望在对中国学习者掌握日语接续形式的使用有所帮助的同时,还能从这一侧面对日语接续形式自身性质有所揭示。未及及不足之处还望专家同行指教。
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[10]王忻.中国日语学习者偏误分析[M].北京:外语教学与研究出版社,2008.
(责任编辑:朱晓江)
OntheExpressionFormofJapanesefromChineseLearners’Errors
WANG Xin
(School of Foreign Languages, Hangzhou Normal University, Hangzhou 310036, China)
This paper, based on Japanese learners’ errors, discusses the connective expression form in Japanese. The errors often occur when the words have synonymous attributes. Similar to Chinese, The synonymous attributes of Japanese words can be a big problem to learners. Through the contrast of erroneous and correct examples, this paper tries to define the usage difference of “から,” “ので” and “そして,” “それに”, “すると”. In addition, it also analyzes the issue of connective expression for adjusting long and short sentences in texts, to which no adequate attention has been given yet.
Japanese; error; continuation expression; synonymous attribute
2009-01-18
国家社科基金项目《对中国日语学习者偏误的认知语言学研究》(09BYY078)和教育部人文社会科学规划项目《中国日语学习者常见偏误体系研究》(06JA740017)的成果之一。
王 忻(1955-),男,北京市人,杭州师范大学外国语学院教授、文学博士,主要从事日语语言学的研究。
H36
A
1674-2338(2010)01-0121-06