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浅谈“东洋道德西洋艺术”

2016-05-09马保彪

青年文学家 2015年30期

摘  要:日本自古以来以吸收外国优秀文化而著称,日本在吸收外国文史并不是盲目地不假思索的全盘照搬吸收,而是做了一定的甄别,并且在不动摇本国文化的基石的基础上与本国文化进行融合,它认同西洋文化的优秀之处,通过提出“东洋道德西洋艺术”来鼓励自己抓住改变自己的难得的历史机遇,本文主要对“东洋道德西洋艺术”的形成、与日本文化的融合之后形成新的日本文化进行论述。

关键词:东洋道德;西洋艺术;洋学

作者简介:马保彪(1981.8-),男,辽宁省朝阳市人,研究生,讲师,研究方向:日本文化。

[中图分类号]:G11  [文献标识码]:A

[文章编号]:1002-2139(2015)-30--01

一、 はじめに

佐久間象山は文化8年(1811年)2月28日、信濃国埴科郡松代町字浦町に生まれた。名を国忠、通称啓之助といい、号の象山は松代にある海抜475メートルの山の名前に由来する。本稿は西洋学術を学ぶことは朱子学と相容れないものではないとする象山の「東洋道徳、西洋芸術」思想から象山が辿りつく経緯とその捉え方、さらに西洋芸術を受容する象山に関する資料の分析をしていきたい。

二、朱子学への崇拝と洋学への注目

(一)朱子学への崇拝

天保11年九月象山が「卲康節先生文集序」に次のように書いていたことである。

佐久 間象山(1913)爲學之要。在格物窮理。而方今人士。皆知誦格窮之訓。正學之旨。若大明於世。然其實日就雜擾偏固。旋復晦盲。余嘗濬思其故。無亦學者徒誦坐譚。不務其實之過歟。今之人。試與之言物理。輙曰。吾方窮人倫日用之不暇。而何暇窮物之理乎。嗟乎豈有人倫日用。而外於物理者耶。余未见昧於物理。而周於人倫日用者也。[1] 佐久間象山(1913)P379参照

象山はアヘン戦争の情報入手をするまでは、朱子学を正統に見受けている。佐久 間象山(1913)「予二十以後、乃知匹夫有繋一国」[2] 佐久間象山(1913)P24参照という鎖国下の閉じた日本的世界観の枠に縛られたのであった。まさに、朱子学に心酔する者である。大平 喜間多(1959)その時期は象山は日本と中国は封建制度の仕組みが同じだと見なし、それにより儒学に深い関心を示し、中でも「正学」と信じる朱子学を再興することが実践的関心の主要な内容となっていたのである。[3] 大平喜間多(1959)P24参照

(二)洋学への注目

日本では、1720年の徳川吉宗の改革はヨーロッパ文化の伝播を促進した。オランダを媒介とする「蘭学」19世紀20、30年代に幕府に弾圧された。特に注目されたのは「蛮社の獄」という洋学者弾圧事件だったのである。洋学研究グループ「尚歯会」の主要メンバーであった高野長英(1804-1850)は捕縛され、獄中で『和寿礼加多美』(別名 「鳥の鳴音」を草したことによって、当時の蘭学は日本の政権側にきわめて異端視され、この苛酷な状況はアヘン戦争が起きる直前まで、日本の洋学に対する基本的な捉え方と見なされるだろう。

三、洋学の勉強とその朱子学的な意味づけ

1842(天保13)年のアヘン戦争で中国が英国の火砲の前に屈伏を余儀なくされた事件からで、日本の朝野に余程大きな衝撃を与えたものだろう。すでに朱子学から目覚めた象山の洋学研究は蘭学の学習から始まった。象山はいつ頃から蘭学に関心をもち、又蘭学の修業に入ったのであろうか。それは天保13年(32才)9月江川太郎左衛門の門に入り下曾根金三郎,村上貞平等と交るようになってからだと思う。『象山全集上 佐久間象山年譜』には次のような陳述が証明してくれたのである。

佐久間 象山(1913)九月七日砲術師範江川太郎左衛門に入門し翌十四年二月六日免許を受く(江川門人録)後麾下の士下曾根金三郎に就き傳書數册を寫し又田原藩士村上貞平に交はり益を受く。[4]佐久間 象山(1913)P20参照

四、終わりに

象山を代表とする方々は西洋文化を吸収するにあたって、そのままコピーしていないが、民族伝統文化の姿勢を崩さずに洗練して取り入れたわけである。西洋科学技術の打撃を受け、「東洋道徳、西洋芸術」をパターンとする日本の成功は我々中国の外来文化を取り入れる時の見本だと思われる。中国の近代化過程に対する反省を通して、われわれは中国の伝統知恵からいろいろなヒントをもらえるのであろう。落ち着いて長い目で中国文化と外来文化を融合させる。世界のメジャー文化の一つとしての中国文化は近代の打撃を受け、反省を通して、姿勢を整えて外来文化を適切に取り入れ、融合、定着すれば必ず洋々たる前途を迎えることができるだろう。

参考文献:

[1]佐久間象山.(1913)「卲康節先生文集序」;『象山全集上』P379,尚文館, 新潟.

[2]佐久間象山.(1913)「省けん録」;『象山全集上』P24,尚文館,新潟.

[3]大平喜間多.(1959)『佐久間象山』 P45-48,吉川弘文館,東京.

[4]佐久間象山.(1913)「佐久間象山年譜」;『象山全集上』P20,尚文館,新潟.